今日もお仕事でした。土曜日なんですけど、抱えている仕事が終わらないんですねえ。
でも、午前中に少し失敬して稽古に行きました。
今日は誰も相棒がおらず、一人での稽古です。
もっとも、相棒がいたところでキックボクシングや空手の方々ですから、稽古自体はひとりで行っているんですけど。
フランスの田舎町ですので、とても静かです。体育館に入るとまったく外の音が聞こえません。集中できます。
丁寧に礼法をして、まずは斬撃から稽古します。
いくら静かで集中できるとは言っても、仕事の余韻が残っていますので、斬撃している間も雑念が浮かんできます。
でも、無理に雑念を消そうとするのではなく放っておいて、体の内側に耳を澄ませるようにします。そうすると、あっという間に稽古に没頭してしまうから不思議です。
結構、心理的負担が大きな案件を抱えてたはずなんですけど。
体の動きになじんできてから、大森流、英信流表、太刀打、詰合、陽之表、陽之裏、三學圓之太刀をいつもどおり、ゆっくりと習います。
今日気になったのは、振り上げの際に肚が抜けてしまって、心と体の重心が上へいってしまったこと。普段からよく注意されていることですが、今日は我が身のことながらよく分かりました。力を抜いて、体の動きに気を配っていたからでしょうか。でもそれはいつものこと。気を配るレベルが深化したのかしら。そう思いたいですね。
どうすれば意識を細かく砕けるのか苦心していましたが、人間の動きのすべてを意識下に置くなんて言うことは出来ないのではないかと思い当たりました。できるだけ力を使わないことを心がけて、あとは体の動きを見ている。意識を体のコントロールに使わず、余分な力が自然な動きを妨げないように使うこと。そんな稽古をしなければいけないのでしょう。ここで自然な動きというのは、流派の自然な動きであって、私が生得した動きではありません。ここのところが要注意で、かつムズカシイところでもあり、武術を学ぶ楽しみでもあるのですが。
で、今日の気づきで少し嬉しくなったわけです。
歳歳年年人同じからず。同じような年がめぐるけれど、人は同じではないという意味です。本当はもっと長いんですけど、対句が有名ですね。
年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。
詩の内容からすると、自分だけが年をとっていくという少し悲しげな言葉ですが、よい意味にとらえて使うことにしています。
「士別れて三日なれば、即ち更に括目して相待すべし」と言えるほど格好良く自分の成長を信じられないし、誇示もできないわけなんです。
うーん。いい感じ。と思ったらもう時間。いきなり現実に戻されてしまうのです。
年年歳歳花相似たり。仕事もずっと減らないで、そのまま残っているのが残念です。