3回ほど稽古日誌を飛ばしてしまいました。稽古はしたけど、日誌を書く前にダウンしてしまい、そのまま日常の雑事?にかまけてしまったわけです。
稽古はかわり映えもせず、剣術と抜刀術の稽古。
それに加えて、せっかく畳のある道場なので、受け身を習おうと稽古を始めました。
といっても、高校のときの体育の授業で柔道を学んだだけなので、とおい記憶を頼りに前回り受け身をするだけですけれど。
四十過ぎのオジサンが、普段しない前回りなどをすると、頭がふらふら呆然とします。
大体、足が自分の頭の上にいく(一瞬でも)なんていうことは、私の人生の中でそんなに多い出来事ではありません。ちょっと大げさか。
(バンジージャンプなんて断固しないし、ジェットコースターなど2回くらいしか乗ったことがない。逆立ち、鉄棒は大の苦手でした)
まして、くるんと回転するなんて、ちょっとした出来事です。
それがどうしてまた受け身を習う気になったかというと。
大小詰では、相手に転がされるのです。受け側ですけど。
師匠や兄弟子にかかると、ふわっと転がされるので、受け身をまったく知らない私でもくるくる転がることが出来ますが、それでもやっぱり受け身を習ったほうがいいでしょうね。師匠や兄弟子の技を信用していないというわけではありません。念のため。
加えて、師匠は柔術の師範でもあり、私もたまに習うわけですが、これがまったく出来ません。
一度などまったく動きがわからずに、兄弟子姉弟子数人掛かりで手取り足取り教えを受けたことがあります。これが文字通り手取り足取りで、一人は私の上体と左腕を、反対にはもう一人、さらに腰と足を押さえてくれる人もいて、とどめに私の技を受けてくれる人もいるという、ワタクシはその真ん中で一体何をしているのかわからないというものでした。
不肖の弟子を自覚してはおりますが、これはさすがに頂けません。何とかしなければ。
その時から柔術をもっと学びたいと思っておりました。
今回機会を得て、畳の上で稽古ができるので、これはまさに天啓。
そういう次第で、空手対キックボクシングのスパーリングをしているその横で、
くるくる(どてどて?)と転がっているわけなんです。
写真を撮ってもらえると珍妙でしょう。
高校時代の記憶と、本部の兄弟子や子供たちの受け身を思い出しつつ、一人で習う。
「視而不見」(視れども見えず)とはこのことで、簡単そうに見えたのですが、いざやってみるとムズカシイ。で、冒頭の四十過ぎのオジサンの慨嘆に至ったわけですね。
最初のうちは、頭をこすったり、肩が床に突き刺さったようになったり、すこし回るようになるとフラフラしたり。
でも、ゆっくりそっと回るようにしていたら、ずいぶん出来るようになった気がします。
上手に体を扱い、身を修めないと、武術の稽古にならないのです。
先の言葉「視而不見」は「大学」から。
「心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず、これを、身を脩むるはその心を正すにあり、といふ」
つまり私のモノの見方は、依然心ここにあらずの状態であったという反省の弁なのです。