英信流奥の稽古に取り組んでいます。
ムズカシイのは当たり前なので、出来ないことは気にしないで、自分の体を確認しながらのゆったりとした動きになります。
師匠のHPの道標に、ゆっくり静かに動くのは、それが目的ではなく、自分の隙に気付くことが目的であることを忘れぬようにと戒めの言葉がありました。驚きました。恐ろ…いえ、ありがたいことです。遠く離れているのに師匠にじっくり見られているような気がしました。襟を正す思いです。
自分なりに無理無駄のない動きを工夫しているつもりですが、ゆっくり動くことに慣れてしまっているのも事実のような気がします。反省です。
師匠というのはありがたいものです。四十を越えて(だいぶ越えましたけど)師匠をもっているというのは、幸いなことだと思います。
子弟の交わりというもので一番感激するのは、賀茂真淵と本居宣長の出会いです。(前にも書いたことがあるような…)
師である賀茂真淵に出会ったのはたった一度の本居宣長ですが、手紙のやりとりで意見を述べ合い(ときには戦いのようなやりとりにもなったそうですが)、終生師匠からの助言を大切にしていたそうです。宣長さんも師匠として多くの弟子を育てましたから、師から弟子へ、そのまた弟子へとすそ野を広げながら国学という体系を作り上げたのですね。立派なことです。
私が宣長さんより恵まれているのは、手紙を待たずとも師匠の謦咳に接することが出来ることですが(インターネットに感謝)、恵まれていないのは学んでいるのが武術という言葉で伝えるのがムズカシイ体系であることです。
稽古日誌にも、稽古上の工夫や感覚などを記すのが非常にムズカシイ。私の拙い筆力ではいかんともしがたい。もっとも稽古日誌は稽古の様子を公開して広く門戸を開くことにあるわけですから、そんなことに苦心する必要はないのですけれど。
…なんだか「稽古について書く日誌」ではなくて「稽古日誌について」の考察になってしまったので、稽古について。
さて、師匠の戒めを心において、稽古に取り組みます。
連続技では一つ一つの技に極めをつくりがちです。特に手指や肩に力が入るようです。その原因は呼吸を止めていることにあるように思います。これも師匠の道標にあったのですが、力みをとるためには深い呼吸が必要とのこと。私の場合、浅い呼吸どころか呼吸そのものを止めてしまっていたんです。厄介です。
若い頃から呼吸のコントロールについていろいろ本を読んで、工夫をしてきました。でも、実践が困難で深い呼吸が身につくところまでには至っていません。普段の生活からしてつい息を止めてしまう癖がついているようです。厄介です。
深呼吸が出来るように工夫の再開が必要ですね。やれやれ。
首を捻りながら動いたり止まったりしている私を不審げに見ていたらしい相棒に時間をかなり超過していることを告げられて、慌てて、でもゆっくりと向拂(!)と横雲を抜いて本日の稽古はお仕舞いです。