ずいぶん久しぶりの投稿になってしまいました。
稽古は続けているものの、他にやりたいことが山積みで、稽古を振り返る時間が取れないという状況ですね。反省です。
稽古はひたすら長大な刀を抜き差しすることで終始しています。
相手がいないので木刀に持ち替える必要もないことから、大森流、英信流表、太刀打、詰合、大小詰、英信流奥を通しで居合刀で行います。
調子のよいときは、長大な刀であっても体が振り回されることなく、すっぽりと体の中に収まっているように感じられるのですが、今日は刀と一体になれずに振り回されてしまいました。無理に刀を扱おうとしてしまったのだと思います。
宮本武蔵の説く太刀の道を通すことが出来れば、無理なく扱えるはずなのです。扱えないと思って、上手にコントロールをしようとして余計に道からそれていく。悪循環です。
自分のはからいを捨て、力を抜いて、刀がおのずから動くようにすること。
それが無理無駄をなくすということだと認識しています。
それでも刀を抜こうという意志だけは必要なんです。それがないとただ坐っているだけになりますからね。でもその抜こうという意志が強すぎると、厄介な『自分』が出てきて太刀の道を狂わせてしまう。「斬ろう」と無理に力を入れたり、斬った感を得るために極めたりする。まったく矛盾することではないでしょうか。「斬ろう」と思わずに斬らねばならない。力を抜いて動きたいけれど、完全に力をぬいてしまうと全く動けない。心も体も、そのぎりぎりのところを見極めて最低限の働きをしなければいけないのですね。
ですので、稽古はいつも日々新たです。
どこまで『自分』を消せるのか。心の思いと体の力をどこまで消すことができるのか。
なんだか武術の稽古をしているのか、宗教儀式をしているのか、分からなくなってきますね。